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조선건축도집해설(朝鮮建築圖集解設)

자료명 조선건축도집해설(朝鮮建築圖集解設) 저자
자료명(이칭) 저자(이칭) 미상(未詳)
청구기호 RD00395 MF번호 MF35-004654
유형분류 고문서/공함류/其他謄錄 주제분류 기타
수집분류 왕실/고문서 자료제공처 장서각(SJ_JSG)
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· 형식분류 古文書-公函類-其他謄錄
· 내용분류
· 시대분류 조선시대
· 서비스분류 왕실고문서
· 유형분류 공함류(公函類)
· 유형분류 기타등록(其他謄錄)
· 청구기호 RD00395
· 마이크로필름 MF35-004654
· 소장정보 한국학중앙연구원 장서각

형태사항

· 크기(cm) 26.5 X 18.5

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내용

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[원문:RD00395_001]
朝鮮建築圖集解說
[원문:RD00395_002]
   朝鮮建築圖集解說     高句麗時代(國初一西紀六六八)
     1.眞池洞雙楹塚
           平安南道龍岡郡池雲面
           年代未詳
 高句麗の木造建築は其の俤を陵墓に止める。陵墓は外部は土饅頭を盛り、內部
に石を以て玄室(棺安置)·前室·羡道(外部よりの參拜廊)を造る。當圖は玄
室より前室を見たる所、兩室境の二本の八角柱はギリシヤのドリア式に似た柱頭
あり、柱身には蟠龍を畵き、豪快である。玄室は間口九尺奧行十尺、壁に柱·組
物·梁·蟇股を描き、當時の木造建築を偲ばせる。壁は上部にて三度持ち出し、三
角形持送を出す事二度、最後に一枚石を以て天井架構を終る。天井には日月雲文
壁には宮殿に於ける葬者奉侍の樣を畵く。建築裝飾文樣悉く當時時代を同じくし
た支那の六朝時代、日本の飛鳥時代の物と共通の性質を有し支那より朝鮮を通過
して日本に及んだ六朝藝術の經路を知り得る。
     2.遇賢里大墓
           平安南道江西郡江西面
           年代未詳(西紀六○○頃?)
 玄室の天井持送を示す。前圖の墓と殆ど仝樣の架構法で當時一般に行はれて居
る。此の墓の裝飾法は、他の墓に於ける如く厚い漆喰塗の上に行はず、花崗岩壁
面上に直に描き 爲に色彩尙頗る鮮明である。文樣は悉く純粹に支那の北魏式で
我が飛鳥式と親密な關係を有し、第一特送の忍冬唐草の如きは我が法隆寺夢殿觀
音背光のそれを想はせる。取材卓拔、運筆雄健、誠に六朝藝術の極致である。四
壁の四神の圖に至つては遒勁叙すべき辭を知らない。
    百濟時代 (國初―西紀六六○)
     3.大唐平百濟塔
           忠淸南道扶餘郡扶餘面
           義慈王二十一年(西紀六六○)の銘あり
 百濟唯一の建築物。右記の年に、唐は新羅を援けて百濟を滅した。時に唐將蘇
定方戰功紀念の爲八月十五日塔の初重の周圍に大唐平百濟碑銘を刻した。故に俗
に此の名かある。倂し此の塔は百濟佛寺の塔として其の以前より建てられて居た
物であらう。花崗岩造の五重塔で基壇上に立つ。初重は方約八尺、太い柱形あり
持送は著しく突き出た屋根を受ける。第二重以上漸次其の大さを低くし、權衝の
美、豪放な氣分は正に百濟末期の雄作である。其の形の木造建築より來た事は明
で、以て日本と關係の最も深い當時の木造建築をも偲ぶぺきである。
    古新羅時代 (國初―西紀六五四)
     4.芬葟寺石塔
           慶尙北道慶州郡慶州面
           姜德女王三年(西紀六三四)
 現在は三重を存する。建築當初は九重塔であつたと云ふが明でない、安山岩の
小石材で築造し一見塼築に似る。思ふに、當時支那に於て流行した塼築を石材で
模した物であらう。初重の四面には入口あり、其の左右に金剛力士像を陽刻し、
形式に支那六朝の風を存する。塔の四隅には石獅を立てる。大正四年修理の際、
內部より發見した石凾內の舍利及び無數の工藝品は六朝風の當時の文化を知るべ
き貴重資料である。
     5.瞻星台
           慶尙北道慶州郡慶州面
           善德女王朝(西紀六三二―六四七)
 東洋に於ける現存天文台中最古の物である。石築、平面圓形、下徑十七尺一
[원문:RD00395_003]
寸高さ二十九尺一寸上に二重の井桁石置く。中央に出入口らしい方形の窓がある
    新羅統一時代(西紀六五四―九三五)
     6.王宮塔
           全羅北道益山郡王宮面
           初期
 新羅統一時代は唐宋の文化を植え、前代と共に朝鮮藝術黃金時代を現出した。
佛塔は木造塔一も遺らず、現存するは石塔塼塔其他である。
 此の塔は馬韓王宮址に立ち花崗岩築五重塔、高約三十尺、樣式手法著しく廢彌
勒寺塔に似略略仝時代の建造と見られる。各重共軒の持送高く、軒付薄く、屋根
突出多く勾配低きは皆當代初期の特徵で木造塔に頗る近い事を見る。
     7.廢彌勒▦寺石塔
           全羅北道益山郡金馬面
           初期
 花崗岩造、現在は六重まで辛じて殘り半ば崩潰して居る。建造當初は九重塔で
あつたらしい。初重大さ二十七尺三寸三分、我か法隆寺五重塔の大に比すべく、
實に半島最大の石塔である。形式は頗る木造建築の俤を止める。卽ち、初重は四
面共に各方柱を以て三間に分ち中の間に入口を設け、脇の間に窓形を造り、入口
を入れば塔の中央に方形の心柱を見る。軒は三重の持送で支られ、屋根は極めて
緩な勾配を以て大膽に外に突き出し、軒付は薄く隅に至つて稍稍反り、極めて輕
快である。二重以上仝樣の手法を以て漸次其の高さ大さを減じ、莊重無比なる事
驚くべき物がある。
     8.塔亭里九重石塔
           忠淸北道忠州郡可金面
           初期
 七重石塔、二重基壇に立つ。相輪は靈盤覆鉢受華迄を存する。高約四十八尺、實
に朝鮮第二の高塔である。權衝絶美、手法精麗、規模壯大、實に當代初期の大作
且つ傑作である。
     9.佛國寺橋及石壇
           慶尙北道慶州郡內東面
           景德王十年(西紀七五二)
 佛國寺は新羅法興王二十七年(西紀五三九)の草創、景德王十年金大城の大修
築に拘る。規模は小さいが今に良く新羅七堂迦籃の制を止め、其の遺構は悉く唐
代文化を受けた最秀最美の藝術品として日本支那の仝時代藝術品に伍して些も遜
色が無い。迦籃は丘陵上南面し、前面石壇を築き、奇巧を極めた石階を架す事東
西二所。圖中近きを靑雲橋白雲橋と云ひ違きを蓮華橋七寶橋と云ふ。下部は穹窿
又は角門を開き、階段は登桁石で左右に分たれ、兩傍に石欄を設けた迹あり。靑
雲橋を登つて潛る門は紫霞門(昔時の中門)と云ひ、左右の廻廊は北折して中門
以北の大雄殿(昔時の金堂)と講堂とに連接したものである。今は大雄殿·紫霞
門及西廻廊曲折点の泛影樓(圖中やゝ遠き建築)を建てゝ居るが木造建築は總て
朝鮮時代の建築であるが其の輪廓よく往時の形体を偲ばすに足る。泛影樓下の石
基柱は最も美しい曲線なる橃形上に肘木三支を重ね、樓下の葛石を支へる。是等
技巧の奇秀形なる事驚くべきである。
     10.佛國寺多寶塔
           慶尙北道慶州郡內東面
           景德王十年(西紀七五二)
 佛國寺大雄殿前二塔あり、東塔を多寶塔、西塔を釋迦塔と云ふ。多寶塔は形態
群を絶ち構成奇巧を極め、當時工匠の神技驚くべく、實に新羅時代塔中最も秀で
日本支那共に斯の如く奇拔秀美の物を認め得ない。四方に階段を具した方形の高
い基壇に塔は乘る。初重は心柱を中央に建て、四隅の太い角柱と共に方形の屋根
を支へる。二重以上四重迄皆平面は八角、奇技な柱と高欄を具へ、四重目の八角
屋根の上よりは相輪が伸びる悉く花崗岩を用ひて而も木造建築に等しい細麗な技
工を施し而も其の權衡の最も好き、唐藝術手法のを遺憾無く發揮した千古不滅の
藝術品である。
     11.佛國寺釋迦塔
           慶尙北道慶州郡內東面
           景德王十年(西紀七五二)
 佛國寺西塔、一に無影塔と云ふ。全高約二十七尺、二成の壇上に立つ三重塔。
手法簡單で氣魄は壯大、新羅中期の此の種の形式の塔中最秀の物である。
     12.慶淨惠寺十三重塔
           慶尙北道慶州郡江西面
           初期
 此の種形式の唯一の物。初重塔身と屋根は上方に比して著しく大きく、以て此
の塔に幷なき安定と奇技さとを與へて居る。各重減縮の度、各手法の對照等皆宜
し、くその風格甚だ壯麗優雅である。
     13.神勒寺五重塔
           京畿道驪州郡北內面
           初期
 塼築。支那の塼塔を模したらしく、氣分が著しく支那長安の諸塔に近い。二成
基壇上にあり、各重屋根及び軒持送の出の頗る小なのは塼材の小さい事に因する
壁面を築いた塼には多く半圈內に優雅な草花文を入れた形を陽刻して居る。
     14.安東邑東七重塔
           慶尙北道安東郡安東面
           年代未詳
 塼築。總高約五十五尺。基壇は損傷して居るが、二成石壇であつたらしい。下
成壇は壇上積。東の間には八部神將らしい者を陽刻する。初重南面に入口あり。
內部天井は塼を四方より次第に持ち出して成り、中央に心柱を容るべき所あり。
恐らく木造の心柱が各重を貫通して相輪を支へたものであらう。屋根は當時瓦を
葺き、今その一部を存する。
     15.華嚴寺舍利塔
           全羅南道求禮郡馬山面
           景德王十三年(?)(西紀七五五)
 華嚴寺は智異山西麓の大刹で、新羅眞興王朝の草創、景德王朝勅して重新せし
めた。此の塔は總高約二十四尺、二成壇上に立つ三重石塔である。下壇には各面
各三區の格狹間あり、內に天人舞樂の像を陽刻する。上壇は中央に慈藏大師立ち
四隅の雄豪な獅子と共に頭上に平石を支へた其の意匠奇想天外である。初重塔身
は四面に扉形を造り出し、南北に四天王、東面に兩菩薩西面に仁王を刻む。最頂
部には寶珠露盤あり。總じて權衡完美手法典麗、意匠奇技。佛國寺多寶塔と共に
東西雙壁と云ふべきである。
     16.石窟庵石窟
           慶尙北道慶州郡內東面
           (西紀七四二―七六六)
 金大城の創立に成る。支那の六朝隋唐間に行はれた石窟寺形式の移入された物
であるが、支那に於て、例へば雲崗や天龍山等に於ける樣に山に橫穴を穿ちて作
つたのに反し、當石佛寺にては石を積んで窟室を作り、後に上を土で覆つてある。
石佛寺形式は日本では大分縣に其の名殘を見るのみである。東東南面、平面圓形、
左右徑二十二尺六寸、前後徑二十一尺七寸二分、入口廣さ十一尺一寸五分、巾二
十一尺三寸の前庭あり。當初は此の上に屋根を架したらしい。
 圖は入口より內部を望んだ所。入口左右には、八角石柱立ち、石肘木を以て栱
形梁を支へる。左右側壁には四天王を、其の手前卽ち前庭の左右壁には八部神衆
[원문:RD00395_004]
を陽刻する。
 石窟內部は周壁を上中下三段に分つ。下壁には格狹間を作る。中壁は是を縱に
十五區に分け各區に立像を陽刻する。卽ち本尊正後には十一觀音、其左右には各
五軀の羅漢、各一軀の菩薩立像あり。上壁は中壁境の長押上部に左右各五ケの小
佛龕を穿ち、菩薩居士の坐像を安置する。其の上より穹窿狀天井高くかゝる。天
井迫石間には槓杆狀石材を配して支持力を增し、穹窿中心天井迄の高さ卽ち本尊
佛頭上に蓮花を刻んだ一大石を上げる。
 石窟中央には石蓮台上に丈六の釋迦坐像あり。其背後の壁に一大蓮花を刻み、
本尊の背光とする。
 當石窟は構造奇巧。意匠卓拔、佛像其他彫刻皆精美、朝鮮に於ける最美の物、
總て是れ新羅藝術黃金時代の代表的遺物である。
    高麗時代(西紀九一八―一三九二)
     17.浮石寺無量壽殿
           慶尙北道榮州郡淨石面
           辛禑二年(西紀一三七六)
 浮石寺の創立は新羅文武王十六年に溯る。辛禑年間倭冠に燒かれて後再建され
た。現在再建當時の儘存するは無量壽殿と祖師堂である。無量壽殿は樣式上より
考察して或は辛禑二年再建でなくて、それより更に百年乃至百五十年古い物でな
いかとの說がある。
 當殿は先づ現存せるものでは朝鮮最古の木造建築なる事を特記せねばならぬ。
新羅統一時代や高麗上半期に於ては優秀な木造建築が夥しく建てられたらうが今
は皆廢滅に歸し、高麗時代のと雖も目下僅に三建築の發見されたに過ぎぬ。其間
に處し當無量壽殿は就中最古而も朝鮮木造建築中最秀の物たるは其の價値を益益
大にするものであり、而も殿內の本尊、租師堂內の壁畵は夫れ夫れ當代彫刻繪畵
の最秀特自の物たるに於て、當殿は正に「朝鮮の法隆寺」と稱するも决して越賞
でない。
 殿は法隆寺式の石壇に立ち五間三面、入母屋造。前面五間と背面中央一間とが
入口になる。柱には最も適當なる膨み(Entasis)あり、柱上の組物は二手先で我
が鎌倉時代に行はれた天竺樣の樣式に似て居る。例へば皿斗あり、肘木下端に繰
形ある如きである。斗繰の曲線なるは朝鮮建築中一二の例あるのみである柱間の
小壁には東、蟇股の類を置かぬ。
 棰は軒隅のみ扇棰。色彩は柱は紅殼塗、斗栱以上は綠靑を主色とし、用材下端
木口等は紅殼塗、壁は薄黃。
 總じて形態誠に壯重、細部の手法均衡共に宜しく美である。
     18.浮石寺無量壽殿內部
 床瓦敷、往時は瑠璃瓦を敷いた。天井化粧屋根裏、二重梁の構築、外部仝樣の
斗栱を以て、或は天竺樣の揷肘木を用ひ、或は奇技なる蟇股·拳鼻を用ひ、其の
構築奇巧縱橫、綠靑を主とした色彩と相俟つて實に天井架構の粹美である。當建
築の樣式は大体に於て、和樣と天竺樣との混合式と云へる。
本尊無量壽佛卽ち阿彌陀佛像は本堂內に偏し東面し、卽ち本堂正面に對し橫向
である。理由不明だが、或は阿彌陀淨土は西方にありとの意よりかも知れぬ。木
彫佛、慈和にして雄偉、木彫の背光は流麗なる寶相花に飾られ、當代佛像中最秀
で鎌倉宋元の彫刻に比し些も遜色がない。
     19.釋王寺應眞殿
           咸鏡南道安邊郡文山面
           末期
 朝鮮太祖李成桂登極前の建立で、此の建築は當代末期の形式たると共に直に朝
鮮時代建築樣式の先驅となるものである。高い壇上に立ち五間三面切妻造。柱に
膨みあり、上に台輪を橫へ、而る後二手先の斗栱を組む。二手先目の肘木鼻は尾
棰樣に短く斜下に出で頗る强勁である。柱間小壁には仝形仝大の斗栱を詰め所謂
詰組の樣式である。
 斗栱の制は殆ど純料の支那の宋元の樣式に近く、以て朝鮮に於ける其の影響を
知り得る。棰は軒隅のみ扇棰。
 內部床は板敷後。壁と左右壁とに寄せて佛壇を作り、釋迦三尊五百羅漢を安置、
天井は格天井。
 內外共に美華な彩色を施して居るが近年の塗替である
     20.月精寺八角九重塔
           江原道平昌郡五台山
           初期
 高麗時代石塔は前時代を受けて優作尠からず、多くは佛國寺釋迦塔の形式の物
であるが茲には形式の奇異なるを擧げる。
 此塔は朝鮮八角塔中最大にして最秀のもの。二成の石壇上にあり、形体壯重手
法華麗。相輪は朝鮮時代初期の作らしく、一部石造一部造銅、朝鮮に現在する相
輪の最も完全なものである。各層軒先には風鐸あり、總じて風越に富んで居る。
     21.慶法泉寺智光國師玄妙塔
           江原道原州郡富論面
           (今京城府總督府博物館にあり)
           宣宗二年(西紀一○八五)
高十七尺五寸、基壇方十二尺。
 石塔。平面は方形。二重壇基に次いで塔身あり。屋根は寶珠を以て飾る。基壇
の四隅には石獅を置く。表面一体に佛像、雲龍、唐草文樣を透間無く浮彫し、精
級華麗を極めたる事、全体の均衡の精美と共に、高麗時代の此の種の物の他に比
すべきがない。塔身の扉其他、當時の木造建築を窺ふに充分であり、此の点に於
て亦貴重な塔である。
    朝鮮時代(西紀一三九二―一九一○)
     22.京城南大門
           京畿道京城府
           世宗三十年(西紀一四四八)
 朝鮮の都邑は支那に於ける如く其の周圍を城壁で包み、外方との交通の爲數箇
の城門を開き、其の南城門卽ち南大門が最も重要なるが常である。京城城壁は大
小八門を開き、其中南大門と東大門とが最も大である。
 京城南大門は本稱崇禮門と云ひ、李太祖の遷都築城當時の儘である。花崗岩で
築かれた城壁は此處で一大虹門を開き、其上に五間二面の二層樓を儼然と立てゝ
居る。形態壯重堅厚、李朝五百年の王城の正門として誠にふさはしく其の地位を
辱しめぬもの、又當代初期の建築中最秀なるものに屬する。柱は膨みを有し、斗
栱は三手先詰組。手法は釋王寺眞眞殿に類似し、堅實である。軒は二軒、屋根は
四注、大棟の兩端に䲭吻を上げ、隅下棟には群像を並べ、四方を威赫して余祐猶
綽綽たる所がある。
     23.京城東大門
           京畿道京城府
           李太王六年(西紀一八六九)
 當門は本稱を興仁之門と云ふ。規模形式南大門に類似して居るが、其の各部比
例に於て彼に及ばず、屋根は過大の嫌あり、其の細部は輕浮纖弱、構造的裝飾的
共に眞を離れて徒に裝飾せんが爲に裝飾するを是れ念とした跡歷然たり、當代末
期頹唐の氣分を如實に止めて居る。當代末期の建築の此の弊に陷らぬは無く、當
代に入つて支那の影響を絶つて以來朝鮮獨特の藝術の發達を促したけれども、其
の方針を誤り、中期は初期より惡く、末期に到つては終に救ふべからぬ墮落の底
に沈淪し終つたのは朝鮮藝術の爲惜しむべきである。
 城門外に半圓形甕城卽ち桝形を築いたのは支那にも見る所である。
     24.浮碧樓
           平安道平壤府
           光海君五年(西紀一六一二)
 城壁に附隨して樓がある。都城は多く山陵に從つて築かれ、比較的高所で展望
の廣い地位を撰んて樓を起し、戰時物見の場所且つ上將の指揮所とする。卽ち日
本の天守閣に相當する。四方吹き放しの比較的規模大に、裝飾の入念なるを常と
し、平時は官吏が官妓を交へて遊興の用に供した。
[원문:RD00395_005]
 平壤城郭は大同江を俯觀し、北方は山に依り、乙密台·牡丹台のあたり江に臨
み千里の外を見晴す大形勝地に樓を起して居る。浮碧樓は牡丹台上永明寺傍にあ
り、大同江を直下に俯瞰する。壬辰の役直後の再建で中期建築中最も始の物に屬
する。規模小なれども溫雅掬すべきものがある。
     25.華虹門及訪花隨柳亭
           京畿道水原邑
           正祖二十年(西紀一七九六)
 水原城は正祖十八年起工仝二十年落成、規模小ではあるが蓋し朝鮮に於て最も
發達した形式を完全に有した代表的城廓である。支那の城廓より脫化して其施設
更に一頭地を拔いた槪がある。
 華虹門は卽ち其の城壁の河流を跨ぐ所謂水門の代表者で數ケの虹門より水を潛
らせ、上に樓を起して是を護る。其の東方丘上に訪花隨柳亭あり、∟字形平面に
奇趣風雅の極なる立面を起し、四圍の勝景と相俟つて最も朝鮮的風趣の深深たる
ものである。
     26.矗石樓
           慶尙南道晉州邑
           英祖二十八年(一七五二)
 古來幾多の物語を以て有名な樓で、江に臨み矗矗と立つた岩上にさしかけて造
られ、規模も大に手法輪廓共に好く正に代表的樓建築とすべきものである。
     27.百祥樓
           平安南道安州邑
           英祖三十年(西紀一七五四)
 樓の中特に畵的趣味に富む構築である。一端の折れ曲りが特に形態に變化を與
へ建築的効果を大ならしめる。
     28.昌慶宮弘化門
           京畿道京城府
           成宗十四年(西紀一四八三)
 李王五百年の王居として京城に景福宮·昌德宮·昌慶宮其他の宮殿あり、殊に
以上三宮は規模宏大で王居たる威嚴に富む。本集には現存建築中當代初期の例と
して昌慶宮を、仝末期の例として景福宮を揭げる。
 昌慶宮は成宗代に創設せられた離宮で主要部は悉く朝鮮初期建築に屬し、景福
宮其他の後期建築建設の範となつたのみならず、初期を代表する優秀なる建築で
ある。
 弘化門は東面した宮殿の正門である、三間二面の樓門、上層屋根四注、桁行中
の間十五尺四寸、脇の間十四尺四寸、梁間各十尺九寸。斗栱外部二手先內部三手
先、詰組斗栱の外に突出する枠肘木端は尾棰狀をなし、其の端著しく反り且つ銳
く削られ頗る活動的である。台輪下繰形、拳鼻等稍足利時代の樣式に似て居る。
上層床板數、天井は化粧屋根裏。裝飾は柱は淡丹色、斗栱以上は綠靑色に塗り、
素淡掬すべき物がある。上層の柱間を縮め、低くし、屋根勾配を緩くした事等よ
りして形態莊重安定、而も細部に銳利の精神を藏し、京城に稀に見る美建築であ
る。
     29.昌慶宮明政殿
           京畿道京城府
           成宗十四年(西紀一四八三)
 明政殿は仝宮の正殿にして王の朝賀の禮を受ける所。五間三面單層入母屋造、
桁行六十尺四寸、梁間三十二尺三寸。斗栱は三手先、詰、弘化門の夫れに類し
頗る雄勁である。內部床は瓦數、天井は花文を彩繪した格天井、其中心飾は密接
した小斗栱を二重に折り上げて作り、內部に雙鳳寶珠及雲紋を刻した物を吊り下
げる。正面に寶座あり。後屛に昆崙五山を畵く。裝飾亦弘化門に似て、より賑で
ある。
 殿の立つ二成の石壇は正面に大石階、左右に小石階を作り、正面石階廣さ上下
共十七尺七寸、登桁により三區とし、中區中央板石表面には雙鳳相對して飛翔す
る狀を浮彫にする。
 殿の左右に廡廊を起し廣い前庭を圍み東方明政門に終る庭は群臣の參列する所
     30.景福宮光化門
           京畿道京城府
           李太王二年(西紀一八六五)
 景福宮は太祖三年創建せられ、久しく荒廢に歸して居たのを李太王卽位の始め
大院君大英斷を以て舊礎に就き、昔時の制に準ひ再興したるもの。北に白丘の峨
峨たるを負ひ、南に諸官衙を廣衢に列し、制規宏大、輪奧嚴美、李朝棹尾の大造
營として中外に誇るべき大構築である。
 其の制たるや、南北に長き全宮城を高き石墻を以て護り、南に正門光化門あり
東に建春門、西に迎秋門あり、北に神武門あり、光化門內南北に走る軸上に南面
して先づ勤政殿門は我が朝堂院たり、康寧交泰殿門は我が內裏たり、更に後苑松
柳花▼(艹/卉)四時趣を添え、宮中の豪華眼に見る如きである。
 光化門は下層石築、三栱門を開き、上に重層の樓を立て、堂堂都下を睥睨する
の觀あり。樓は下層三間二面、桁行七十九尺三寸五分、梁間二十四尺四寸。周圍
に胸壁を圍らす。斗栱は外二手先內三手先、詰組、天井格天井。上層三間二面、
軒二軒、屋根四注。裝飾は柱丹塗、組物以上綠靑を主色とし華麗に彩色する。細
部は總て當代末期の眞を失つた文樣を以て埋め纖弱見るに堪へぬが、輪廓の堂堂
たるは其の弊を掩うて餘ある。
 門の前面に壇あり、階石欄を設け、最前方左右に一對の石製の怪獸あり台上に
坐る。俗にカイダと云ふ。
 此門は今移されて當宮東墻にある。
     31.景福宮建春門
           京畿道京城府
           李太王七年(西紀一八七○)
 當宮の東門たり。西門たる迎秋門と規模形態を殆ど等しくする。高さ二十尺で
連綿と走り來つた宮墻茲で數段の翼墻をは以て俄然高度を增し、厚さを增して茲
に門を開く。門上單層樓あり、三間二面、屋根四注、下部の石門の豪堅と照映し
て、頗る輕快風雅、宮側門たるにふさはしい。總じて光化門、南大門等の如き二
層樓門の豪壯にして親しみ難いのに對して、單層樓門は輕快にして親しめる而も
其の均衡は多くの塲合美しい。京城城門光煕門·西大門等悉く此の式であつた。
     32.景福宮勤政門
           京畿道京城府
           李太王七年(西紀一八七○)
 當門は正殿勤政殿の南正門である。三間三戶の樓門、東西の小門を日華門月華
門と云ふ。廡廊其の左右より起り、門內に廣き勤政殿を中心とした內庭を圍み北
方思政殿に終る。當門の斗栱外二手先內三手先、屋根四注、柱辨殼塗、斗栱以上
の裝飾華麗を極める。特に梁の群靑色は特種の感を此の門に添へる。
 門の前面に御溝流れ、錦川橋なる石橋を架し、親柱に螭龍あり、溝畔に怪獸の
匍匐して水中を俯瞰する狀を葛石より作り出して居たが是等總て今に除去せられ
た。
     33.景福宮勤政殿
           京畿道京城府
           李太王七年(西紀一八七○)
 景福宮の正殿、卽ち吾が大極殿に當り、諸禮賀の行はれ、使臣の朝賀を受ける
所。廡廊に圍まれた內庭は悉く石を敷き、參道の左右に白大理石を立て、殿より
門まで正一品より正九品迄の刻字あり。卽ち左右を文班武班各位の參列所とし其
の參列位置を示したものである。
 殿は二成の基壇に立つ。基壇は花崗岩で作られ、其上に石欗あり、葛石、束等
總て彫刻し、親柱上には螭龍猿兎鷹等の丸彫を置く。石階の構造は明政殿と仝じ
い。
殿は五間五面重層、桁行百尺七寸、梁間七十尺三寸、正面及側面中央三間後面中
央一間を戶、他の間を窓とする。共に花狹間ある扉欄間をつける。斗栱は外三手
先內四手先、詰組。上層亦五間五面、屋根入母屋造、色彩裝飾は柱は朱塗、窓戶
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の扉及欄間は綠靑塗、組物軒等は綠靑地に或は黑白兩線を畵き或は五色にて唐草
文樣を畵く等、寧ろ過麗な色彩は繰形其他の無意味纖弱の手法と俟て徒に繁雜の
感を與へるに過ぎず、當代末期の弊を遺憾無く現はしたものと云ふべきである。
 但し殿は大さに於て朝鮮建築中五指の中に數へられ、加へて輪廓の大は周圍壇
廊の制と相俟ち森嚴無比前後に絶する壯構築とすべきある。
     34.景福宮勤政殿內部
 西南より東北隅を見た所。內部は一大廣間を成し、朱塗の獨立柱の肅然と立ち
高壯なる天井に五色映發する樣頗る壯麗である。床は土間、正面に玉座を設るけ
天井は格天井なる事其他明政殿に做ひ、彼より遙に規模大に華麗である。
     35.景福宮勤政殿玉座
 玉座は四方に階あり、壇上朱欄を廻らす。御座は方形、繰形ある脚がある。後
方の屛は羽目に悉く牡丹唐草の透彫、雙鳳雙龍の彫物を刻む。其後更に五山日月
を彩繪した屛障を立てる。群靑色が主調をなし日月の金色と照映する。上方に天
蓋あり、小斗栱を以て折上天井を作り、天井內部よりは雙龍寶珠雲紋等を彫つて
吊り下げてある。
     36.景福宮勤政殿天井
 當代末期の天井裝飾として佛寺其他の建築にも是に類する方法を行つて居る。
卽ち格天井の押緣には寶相花、格間には雙鳳を畵き、殿中央の天井一部を小斗栱
で餘地なく詰めて一種の折上天井を作り、內部に雙鳳寶珠等を彫つて吊り下げる
以上數種にて解說した室內裝飾法は勿論支那建築より來る所、たゞ獨より規模稍
稍小に、稍稍形式を異にしたばかりである。
     37.景福宮後苑煙突·塀及門
           京畿道京城府
           李太王七年(西紀一八七○)
 是等は王妃の常御殿交泰殿(國王の常御殿は康寧殿)後苑にあり、煙突煙出し
で、側の塀及び次圖の畵塀と共に最も美術的な塼造である。煙突は四基あり、赤
煉瓦造の構築表面に白い漆喰を塗り、松鶴、竹雀等を群靑、赤、綠靑等で美しく
象篏し、周圍花壇の百花に包まれて、柔い物靜な風致を添へ、女性の住むの飾と
して實にもふさはしいものである。後屛には仝じく幾何文樣龜甲文樣、又はその
中に花文樣を入れた意匠を象篏する。更に後苑には多くの此の形其他の小門があ
る。簡單な肘木を突き出して屋根瓦をのせた一柱門は實にも愛すべき風雅を有つ
此他昌德宮秘苑內にも種種意匠を疑らした小門あり、皆感ずべき何物かを持つ。
     38.景福宮慈慶殿畵塀
           京畿道京城府
           李太王時代
 慈慶殿は李太王の御養母の住まれた所、其後苑に此の畵塀あり、前仝樣の方法
より成る大畵塀あり、其意の匠の秀拔なる色彩のな閑雅る、此の種遺例中第一
ある。
     39.景福宮慶會樓
           京畿道京城府
           李太王七年(西紀一八七○)
 慶會樓は君臣饗宴の所、廣廣とした方形の池は漫漫たる水をたゝへ、赤白の蓮
花其の淸を誇る間より、方形の島上雄然と起したる大樓は淸水に影を映し、朱楹
碧欄は純白の柱廊と映發する下、白鳥の悠悠として泛ぶあり、月の夕、花の朝優
しくも又誇がましき宴であつたらう。
 殿は東方より三石橋を以て達する。桁行七間梁間五間、重樓入母屋造り、正面
巾百十三尺側面巾九十四尺、實物大さは殿內勤政殿に次する。下層花崗岩柱は側
柱は斷面方形內部柱圓形、經三尺高さ十五尺六寸の大柱、各各一材より成る素晴
しい大材である。上層は下層に比し丈低く木造、格天井軒部悉く極彩色、其上勾
配多い大屋根傲然と起り、廣い妻を現す所、豪壯奇拔、周圍の廣廣した風景によ
く調和し、實にも伸びやかな王室らしい饗宴場である。
     40.東明館降仙樓
           平安南道成川郡
           後期
 客舍の一例である。政府は各州郡に必ず客舍を設け、正堂に國王の殿牌を安置
し朔望には大小官吏此に集り闕に向ひ稽首し式を擧げた所、又王廷よりの使臣の
宿泊所ともした。一般に形式は正堂敷地の中央にあり、左右に翼堂あり、前面に
中門、外門を立て、周圍に廡廊其他がある。東明館は後期に於ける最も規模大な
る代表的實例である。
     41 嶺南樓
           慶尙南道密陽邑
           後期
 仝じく畵的趣味豊富なる。樓を擧げる。江に臨む岳上高く、五間三面の樓閣は
翼樓を左右に從へ、中間の廊下は三段に高さを代へ、審美的劃空線を形造る意匠
に於て氣魄に於て雄大にして秀美である。
     42.文廟大成殿
           京畿道京城府
           宣祖三十四年(西紀一六○○)
 孔子廟で各州郡に建て、更に是に鄕校を附屬せしめた。一般の配置では多くは
南面し外門、中門を入れば左右に東廡西廡あり、正面に大成殿は壇上に高く威容
を正し、內に孔子四配の木位を安置する。更に後方に東西廡を左右に從へ、鄕校
明倫堂正面に立つ。京城文廟は又經學院と稱せられ、文廟中最も宏大で最も規模
完備したもの。特に大成殿は五間四面單層入母屋造正面一間通り吹き放し、斗
栱簡單に强く美に、淡綠靑の色は桂の淡朱色と映じ品のある落ちつきを見せて居
る。
     43.東  廟
           京畿道高陽道崇仁洞
           後期
 壬辰役當時援軍に來た支那明の將土が軍神として支那英雄關羽を崇拜して勝利
を祈るべく處處に其廟を建てた。是が朝鮮に於ける關王廟の始である。故に此の
建築には構造形式共に支那の關王廟を模したもの多く、京城の東廟の如きも此の
圖の如く本殿の前に禮堂を連結し、壁は支那風に煉瓦造とし、朝鮮建築中異樣の
感を與へしめる。
     44.海印寺藏經板庫
           慶尙南道陜川郡伽倻面
           成宗十九年(西紀一四八八)
 伽耶山海印寺は新羅時代以來の大迦籃で、藏經板庫二棟は當代初期の重要なる
實例である。長方形の長い建物で四注造、奈良時代の建築を思はす所あり、手法
亦見るべき所がある、內部に架棚を設け、有名な高麗藏經の木版を保存する。
     45.通度寺大雄殿
           慶尙南道梁山郡下北面
           宣祖朝
 通度寺は新羅善德女王の創建であるが當時の遺構としては僅に三重石塔と石燈
石座のみである。當圖は當代後期の再建になる觀音殿を右にして正面に遠く大雄
殿側面を見る。大雄殿は朝鮮佛寺では卽ち本堂に當り、禪宗であるから釋迦を安
置する。當大雄殿は正面三間側面五間斗栱三手先の佛殿で規模宏大、屋根は大棟
が丁字型をなし其端各各入母屋造となり、朝鮮建築中他に比類を見ない奇拔形を
なす。而も棟の交点には靑銅製寶珠をのせる。石壇側面には蓮花紋を刻し、石壇
中稀に見る丁重なる取扱である。堂內の壯嚴亦見るべき物がある。
[원문:RD00395_007]
     46.梵魚寺大雄殿
           慶尙南道東萊郡
           肅宗六年(西紀一六八○)
 梵魚寺は新羅興德王九年の草創、當時の物としては僅に圖に見にた三重石塔と
石燈と殘るばかり。南面して大雄殿あり、其の右金魚庵、左觀音殿石階を下れば
右に鐘樓あり、更に其前に普濟樓あり、樓の形式を取り、朝鮮佛寺には多く是を
建てる。更に下つて不二門、天王門、曹溪門(解脫門)あり、是一般に朝鮮佛寺の
配置法である。
     47.金山寺彌勒殿
           全羅北道金堤郡金溝面
           中期
 金山寺には舍利塔、十三重塔其他數多の新羅時代遺物あり。當代中期の物とし
て彌勒殿と大寂光殿とある。
 彌勒殿は朝鮮唯一の三層佛殿で、其の各部、全部の均衡頗る壯重にして整美、
細部の手法も宜しく、外部に色彩を殆ど施さぬ事は雅致を增す所以となり、誠に
賞すべき美建築である。
     48.法住寺捌相殿
           忠淸北道報恩郡俗離面
           後期
 此の寺亦新羅朝の草創で仝代の遺跡に富む。當建築は朝鮮に現存する唯一の木
造塔である事に於て殊に珍らしい。初層方三十七尺五寸高さ八十尺相輪高さ約十
三尺。初重第二重は方五間。第三重第四重は方二間、各比例滅縮の度多く內地の
塔の高險なるに比し寧ろ安定に過ぎる程である。相輪は內地に比し短く、九輪は
僅に五輪のみ、些か粗末の造りである。造塔技術の衰退を現すものであるが、唯
一の木塔なる事及び內地塔と比較硏究上の事に於て實に貴重な實例と云ふべきで
ある。
     49.廢大圓覺寺多層塔
           京畿道京城府バゴダ公園內
           世祖十二年(西紀一四六七)
 高麗時代末に成つた開城の敬天寺多層塔を模したもの、元時代樣式の踏襲であ
る。白大理石造、三重の星形基壇上に十重の印度系平面の塔あり、(今三重を下
に下す)各重塔身に十二會相を刻み、其他の部分に隙間無く佛、菩薩、天部人物
草花等を容れ、更に塔身及び軒、屋根、斗栱の制等實に好く木造建築を石に模し
木造建築硏究上實に貴重にして興味多い。總じて形体均衡善美の極と云ふぺく、
意匠の豊富手法の精練當代此種の最美とするべく、更に是を仝時代の明の技術と
比するも優るとも遜ることなく、當代初期の技術尙大いに觀るべきものゝあつた
事を立証する貴重なる遺物である。
     50.住   宅
           京畿道京城府
           現代
 朝鮮一般に見る瓦葺家の例である。京城邊の間取法は通例矩形の屋敷內に境目
について∟形⼖形□形に棟を並べ、中庭あり、室は一文字形に並べ、中央の間を
板の間(抹樓又は大廳)と云ひ、夏の居間とし、左右は溫突間にし、特に奧の間を
內房と云ひ婦人室とする。前面には小椽側(𣗔抹樓)をつける。それに續いて大
きな台所(厨房)あり。庭には台所に近く醬甕台とて漬物の甕を置く所が區劃さ
れて居る。粗末な家や農家は多く草葺屋根で「茸」の樣に山蔭や森蔭につゝましく
ちゞかまつて居る圖の樣に屋根に眞赤な唐辛しを千す秋の頃、溫突の煙のゆらめ
き出て夜深く砧の音淋しき冬の頃など其の平和な情味は殊に淚ぐましい。