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한국병합과 이등박문의 조난(韓國倂合と伊藤博文の遭難)

자료명 한국병합과 이등박문의 조난(韓國倂合と伊藤博文の遭難) 저자
자료명(이칭) 한국병합[○]이등박문[○][○]난(한국병합[○]이등박문[○][○]난) , 한국병합と이등박문の조난(韓國倂合と伊藤博文の遭難) 저자(이칭) 미상(未詳)
청구기호 RD00783 MF번호 MF35-004656
유형분류 고문서/외교문서류/其他備忘記 주제분류 기타
수집분류 왕실/고문서 자료제공처 장서각(SJ_JSG)
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일반사항

· 형식분류 古文書-外交類-其他備忘記
· 내용분류
· 시대분류 조선시대
· 서비스분류 왕실고문서
· 유형분류 외교류(外交類)
· 유형분류 기타비망기(其他備忘記)
· 청구기호 RD00783
· 마이크로필름 MF35-004656
· 소장정보 한국학중앙연구원 장서각

형태사항

· 크기(cm) 25.5 X 35

· 상세정보

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내용

【서지사항】
【체제 및 내용】
【특성 및 가치】
범례
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[원문:RD00783_001]
        韓國倂合と伊藤博文の遭難
韓廷密使事件 日露戰役の結果として、韓國は我が勢力範圍に歸し、爾來我政府は銳意誠實を以つて其改善發達に努め、韓廷亦た之
れを諒とし、善く我が指導に從ひ、兩國の親善殊に殷渥を極めたのであるが韓國顯官にして密かに我政府の保護を快からずとなすもの
あり、爲めに韓國の皇室を慂慫して遂に事を誤る亦た尠からず、四十年六月第二萬國平和會議の和蘭海牙に開催せられんとして、列國
代表者の玆に集まるや、韓國前議政府參贊李相萵及前駐露韓國公使館書記官完李鐘は突如として海牙に現はれ、平和會議に對して韓國
を參加せしめざりし事を抗議し且日本の保護を脫せん事を列國に哀求した。蓋し從來韓國に在りて新聞雜誌に從事せし、外國記者の統
監府設置以來其の業を廢するの止むを得ざるに至りたるを啣み韓帝を說きて巨額の內帑を支出せしめ遂に密使を歐洲に送りて、爲めに
する所あらんとしたものである。韓帝密使の平和會議に哀求するや、事態元より採擧すべきものに非ざるを以て會議議長ネリドフ以下、
之れを擯斥して顧みず事遂に寢みたりと雖も、報の我邦に傳はるや、世論均しく韓帝の處置を非難し、我政府の速に高壓手段に出づべ
きを切言して止まず、亦た應機の策を講ずる爲め、七月十五日、外務大臣林董をして急遽京城に出向せしめた。
韓皇の讓位 我國の物論傳へて韓國に到るや、韓國君臣の恐怖其極に達し、直ちに十六日を以て內閣會議を開き、鳩首して善後の方
法を議し農工商部大臣宋秉畯率先して曰く、事遂に到る、駟も已に及ばず、韓國の社稷を全ふするの途は纔かに皇帝の讓位あるのみと
乃ち翌十七月閣臣袂を聯ねて一齊に參內し、韓帝に謁して事今や讓位によるにあらざれば、則ち解くを得ざる旨を諫奏して、其勅聽を
請ひたるも、同じく容るる所とならず、爾來連夜各大臣の參內力諫するを絶たず、十七日夜韓帝は統監伊藤博文を召見して親しく辯疏
する所あらんとし、屢屢使を遣はして參內を促したるも統監は外務大臣の未だ至らざるの故を以つて固辭して應ぜず、十八日夕勅使輿
を接するに及んで遂に參內したが、韓帝復た已れの密使事件に關與せざるを陳辯し、讓位に關する統監の意見を求めたるに依り、博文
勵聲之に答へて曰く『讓位の如きは韓國內部の事に屬し、外邦使臣の容喙すべき所にあらず』とて急に辭して統監府に歸つた。此夜再
び閣臣參內して、諫を闕下に奏する事頗る切實を極め、韓帝稍稍其意を動かし卽夜元老を召集して之れを諮詢したるに答ふる所皆讓位
の然るべきを以つてせる爲、韓帝遂に意を決し、十九日讓位の詔勅を發して、翌二十日君位授與の大禮を了した。
京城擾亂と駐兵增派 然るに事理に通ぜざる韓廷の舊臣等は、之れを以つて我政府の壓迫に出づるとなし、倂せて韓國閣臣の計を
我れに通じて韓廷の危殆を致したりと誤解し暴民を煽動して不逞を企圖するものあり、韓國の官兵また十八日夜我警官を襲ひて死傷若
干を出ださしめ、十九日には韓帝窃かに侍衛隊を招致して、各大臣の參內するに乘じ之れを暗殺せしめんするを報ずる者もあり、各大
臣乃ち我韓國守備隊に懇請する所ありたるを以つて、我守備隊は直ちに兵を出して宮城の警護、暴徒の鎭壓に當らしめ、市中の警備頗
る嚴重を極めたるに、此の夜深更に至りて暴徒大擧して總理大臣李完用の第宅を襲ひ、遂に之れに火を放つた、二十日には李址鎔、李
夏榮等諸大臣の第宅亦た燒棄せらるるに至りたるにより、二十三日を以つて京城に戒嚴令を施行し、火藥庫、銃器、彈藥を我軍に收め
て韓兵の禍心を斷つ等、秩序安寧の恢復を計りたるも、從來の駐韓軍のみを以つて、よく其動搖を鎭撫する事能はざる事情あるが故に
二十五日新に命を小倉第十二師團に傳へ、若干部隊を京城に急行せしめた。之れより先、宮內大臣朴泳孝、侍從院李道宰軍務局長李煕
斗等の窃かに謀を韓帝に進めて暴民と事を鬪らんとし、露はれて捕へられる。泳孝はもと亡命の客にして我國に放浪する事多年、邦人
の恩誼を荷ふ亦た頗る大にして、殊に統監伊藤博文の斡旋によりて、漸く歸國を許されたる人なるに拘らず、讓位の事を以つて閣臣等
の韓國▦稷を日本に賣るものなりと速斷して輕擧遂に事を誤り、眞に泳孝の爲めに惜しむべき事と謂ふべきであつた。
日韓新協約 韓帝已に位を讓りて、日韓の時局玆に一段落を告ばたりと雖も、此時に於て日韓協約を改訂し、韓國統治の實權を我に
收め、以て指導發展の任に便するにあらざれば、韓國將來動搖の禍源を永久に絶滅して、之れが富强の實を擧げしむべき事亦た頗る至
難なりとして乃ち統監伊藤博文は外務大臣林董の齎らしたる我元老大臣會議の決議に基き、韓國總理大臣李完用と會商する所あり、
二十三日宵を徹して我が提議を協議し、二十四日に至りて日韓新協約を締結した。
鶴駕朝鮮行啓 此後日韓の親善日に日に愈懇渥を加へ、今や兄弟も啻ならざるものあり、此時に於て四十年十月十日、皇太子嘉仁親
王たりし大正天皇は、韓國觀風の目的を以つて、有栖川威仁親王、陸軍大臣桂太郞、海軍大將東鄕平八郞、東宮武官長村木雅美以下を
隨へ、韓國行啓の途に就かせられた。皇太子の海外に行啓あらせられたるは、實に之れを以つて嚆矢とすべく、日韓の親交また以つて
推すに足るべし、皇太子には軍艦鹿島に海軍少將の資格を以つて座乘あらせられ、香取以下第一艦隊に屬する艦艇全部の護衛を以つて
十二日宇品港を發し十六日艦威堂堂仁川港に着御せらる、統監伊藤博文、韓國駐屯軍司令官長谷川好道其他日韓文武官は何れも謹んで
仁川埠頭に奉迎申し上げ、韓國皇帝及同皇太子亦た歡迎の意を表する爲め、仁川停軍場に行幸啓あり、萬民歡呼の內に卽日京城に入ら
せられ十七日韓國諸大臣に謁を賜はりたる後、正午德敦殿に於て韓帝及皇后と會見し、我明治天皇より贈進ありたる大勳位頸飾章を韓
國皇帝に贈呈せられ、直ちに大饗の卓に就いて、三鞭酒の盃を捧げ彼我皇室の繁榮と健康とを相互に祝福せられた。韓廷の我皇太子を
驩接するや最も意を盡し、舊來の國習を捨てて專ら文明國の儀禮を實踐し、殊に皇后の如きは深宮に隱れて、賓前に出でざるを國風と
なすに拘らず、古式の禮裝に玉冠を戴き、親しく皇太子を邀へて、欵待善く遠來の勞の勞を慰めたるは、藍し韓皇室ありて以來、始め
ての事なりと云ふ 旣にして我皇太子は、停まつて善隣の交誼を溫むる事五日、二十日午前京城を發して、仁川より再び軍艦に搭じ、
二十三日に至りて佐世保に還啓あらせられ、更に豫定の如く、薩、隅、日の間に行啓あり、我皇祖發祥の古歷史を有する西陲の風光を
觀賞し尋で四國の地を巡駕あらせられた。
伊藤博文の遭難 日韓兩國舊來の國柄に鑑み、韓國の獨立をして堅實ならしむるは、獨り我邦善隣の義務たるのみならず、韓國の
存亡は、又直ちに我國の安危に關するものたるを以つて、極東の平和を千歲に保障せんとするには、一に韓國の覺醒を促し、諸般の施
設を改善して、其領權の保安を計らしめさるべからず、我政府玆に意を盡し輔翼誘掖して韓國の國運を發展せしめんが爲め曩に韓國統
監府を設置するや、時の樞密院議長伊藤博文は乃ち統監に親任せられ、遠く海を踰へ任地に就いて以來、年を更ふる事已に四回、其間
稅意韓國の開發に勉めて、庶制を釐革し、國務を整理し、治績頗る見るべきものがあつた。日韓協約亦漸次必要に應じて改訂せられ、
兩國の親善今や慇渥の極に達して、極東の平和愈愈其基礎を固ふするを得たるは、偏に統監伊藤博文の力なりと謂はざるを得ず、然る
に博文は年旣に闌け、健康亦舊の如くならず、遠く出でで海外に駐任するは、其勞苦よく堪ゆる所にあらざるを以つて、其職は罷めん
ことを奏請し、四十二年晩春に至りて、統監更迭の內命ありしも韓國中央銀行設立問題、及豫算編製其他重要なる案件の懸案となれる
もの多かりしが爲め、未だ之れが確定を見るに至らなかつたが、六月の頃に入りてより諸種の懸案大略方針を決したるを以つて、此月
十四日宮中に於て、明治天皇親しく統監更迭に關する式を擧げさせられ、伊藤博文の統監を解きて樞密院議長とし、副統監曾彌荒助を
以つて統監に親補せられたが、天皇には深く博文多年の勳功を嘉賞あらせられ、左の勅語を賜ふて博文の勞を慰めらる。
 朕特ニ卿ヲシテ統監ノ任ニ膺ラシムルヤ、卿ノ忠誠練達ナル、克ク草創ノ業ヲ理メ、韓國扶殖ノ基ヲ固クシ、以ツテ朕ノ倚信ニ副ヘ
 リ、其功寔ニ偉大ナリトス、今ヤ卿ノ陳述ヲ容納シ、統監ノ職ヲ解クニ方リ、朕ハ尙ホ深ク卿ノ啓沃毗贊ニ賴ルモノアラントス、卿
[원문:RD00783_002]
 夫レ之ヲ體セヨ。
韓國皇帝亦た統監更迭の報を聞くや、直ちに親電を博文に發して曰く、
 朕聞、朕所親愛貴公爵、辭任統監、最勝愛惜、今紀綱漸張、萬姓將安堵、是由貴公爵老軀竭精匡朕闕漏躬自經始勤勞多大、朕海謝其
 在任四個年之輔導至誼、玆倂祈賑公爵之健康。
と、猶更に侍從院副卿李容九をして、親書を博文に致さしめて曰く、
 前皇帝及び朕を補翼して、中興の宏業を成就し、且つ數度の協約によりて日韓親交を敦ふし、東洋の平和を確立せるは、卿の功績に
 して、深く感謝す、尙ほ統監任辭後と雖も、韓國の爲めに盡瘁せられん事を望む云云
と、以つて韓帝の博文に對する倚賴の、如何に深重なりしかを知るに足るべしである。
 尋で十月十四日博文は滿洲視察の序でを以つて、極東巡視の途に上りたる露國大藏大臣ココフソオフと、哈爾賓に於て會見せんが爲
め、古谷秘書官を▦へて大磯の私邸を發し、下ノ關に船を艤して大連に渡り、順路奉天、長春を經て、二十六日午前九時哈爾賓に着し
たが、當時已に此地に滯在したる露國大藏大臣ココフソオフは、博文を迎へて列車內に談話を交換する事約二十分、やがて博文はココ
フソオフ先導の下にプラツトホームに整列せる露國軍隊の前を過ぎ、出迎への爲め參集せる各國代表者及露國官憲團體代表者其他に挨
拶をなし、更に引返へして露國軍隊の前面を通過するや、群集の間に隱れ居たる韓人安重根は、短銃を擬して博文を狙擊する事六回彈
丸深く博文の右肺上部及び橫隔膜を穿ちて復た術の施すべきなく、列車內に移され二三の遺言をなしたる後、從容として死に就いた。
博文の遭難たるや固より不測に出でたるを以つて侍者齊しく狼狽して策の取るべきを知らざる有樣であつたが、博文に到りては身に銃
彈を蒙りて些かも動せず、第三彈の飛び來りて胸部を貫き將に殪れんとするに及んでも、兇行者を凝視して、『遺憾!』の一聲を發した
るに過ぎず、當時之れを目擊したる者、悉く博文の剛膽なるに驚嘆した。
韓國統監の更迭と日韓倂合 我政府の韓國を保護下に收めて其指導開發に努むる事旣に四年、漸次國內の禍源を掃蘯して施政の改
善を進涉せしめたるも而かも實情常に日韓兩民の相馳背するものあり、曩には韓民浮妄の徒の伊藤博文を哈爾賓に要擊したるを出し踵
いで復た前韓國政府顧問たりし米人スチーブンの、韓民排外主義の犧牲となりたる等、由來韓民の國權恢復に名を籍り、大義名分に辭
言を飾り、窃かに黨を樹て檄を飛ばして非道不逞の陰謀を企つる者依然として其跡を絶たず此時に於て日韓兩國の識者は連りに我政府
の斷乎たる大英斷を韓國に施し、以つて韓國の禍根を其根底より斷滅せしむるにあらざれば極東永久の平和亦た期して保障すべからざ
る旨を切言し、韓國の政治的大團體たる一進會會長李容九の如きも會員百萬人の連署を以て日韓合倂を斷行すべき上奏文を韓帝に捧げ
同一の意味になれる請願書を我統監府に提出するに至つた。當時我政府は日韓合邦の猶ほ對韓策上不備なる點多きを察し、更に進んで
韓國倂合を實行せんとするの意嚮を有して居たが未だ其時期に至らざるを以つで、請願の如きは乃ち却下する所となりたるも政府旣に
陰密の間に決する所ありたるが故に、四十三年五月統監曾彌荒助の病を以つて職を辭するや、陸軍大臣寺內正毅をして現職のまま韓國
統監を兼攝せしめ、七月に至りて任地京城に赴かしめた。
 正毅の京城に着するに及んでは、日韓倂合の議旣に朝廷の議に上り八月初旬降雨連りなるを機として韓國內閣總理大臣李完用の水害
見▦に名を假り、八月十六日統監邸を訪問して、倂合に關する談話を交換し、此間に於て一種の內約成立したるが二十二日に至りて韓
國閣僚は昌德宮に更に內閣會議を開き結果として總理大臣李完用は公式を以つて統監寺內正毅と統監邸に會見し、日韓兩國倂合に關す
る協定をなした。之れより先我閣臣は此月十八日以來閣議を開きて對韓問題の解決に關する主要なる案件を論議し韓國亦連日閣議を開
催して時局の解決に努めたが、二十日に至りて正毅は嘗て十六日に於ける李完用との會見に際し、彼我意見の合致したるを認めたるに
基く倂合條約案を我改府に電送したるを以て、二十二日明治天皇は之れを樞密院に諮詢し給ひて直に裁可を與へられ、政府は直ちに右
の趣きを統監に通じ、韓國政府亦此日を以つて條約案の裁可を、韓帝に奏請して其勅裁を下し給ふに及び、統監邸に於て、卽日之れが
調印を終へ、二十九日に至りて兩國一齊に之を發表し、古來の懸案は玆に解決せられたのである。